私のお墓参り日記~「永遠のゼロ」の感想とともに
経営を意識してから、というか師匠の背中をみていてからかなるべく年に二回はお墓参りをするよう心がけている。
お墓は九州、福岡県久留米市。
親戚つきあいが少なかったおれだが、お墓参りだけはと思っている。
同じお寺さんに父母両家のお墓があるのだが会った事があるのは母方の祖父母だけだ。
父方の祖父母は早くに亡くなったらしい。この事(父方のじいちゃん、ばあちゃんのこと)は今も親父とは話していない事に今さら気づく。
父方の親戚は今もここ久留米にいるのだが、「親父の兄貴」は一昨年なくなった。あとは女兄姉だけだ。
その息子さん(私の叔父にあたる)ご夫婦と親父のなくなった兄貴のお嫁さんの家がいわば故郷のようなもの。
小学生の時は何度か親と一緒に里帰りしてたが、いつの間にか行かなくなり、母方のじいちゃん、ばあちゃんや仲の良い叔父さんなどが亡くなった時(私が20歳前後の時)も既に営業していた焼肉やまとの店番という口実(店は休むわけにはいか無いからなのだが)でその度私は行けず30歳も半ばまで過ぎていた。
娘も生まれ、実質経営に携わるにあたり師匠の姿をみていた私はまず、一人でお墓参りにいった。
その時の九州は20年以上ぶり。じいちゃん、ばあちゃん、叔父さんが亡くなってからも10年以上が経っていて申し訳ない気持ちでいっぱいだった。おまけに一人で行ったので親戚づきあいがあまりない私はぎこちなかったに違いない。
それでも、その親父の兄貴ご夫婦は私をあたたかくむかえてくれた。帰りの駅まで見送ってくれた時、ホームの入り口で手を振る親父の兄貴をみて泣けた。いや涙が溢れて止まらなかった。
親戚っていいものだ。このくらいの距離があるから尚いいのかもしれない。
今回のお墓参りにはこの本を持って行っての旅だった。
1日で読破した結論から言うと「この本は読んだ方がいい。」と思う。
フィクションであり小説なのだがあの第二次世界大戦と若く散った大多数の日本人。その背景や苦しみ、悲しさが非常によく描かれている。
私は決して軍国主義でも戦争肯定派でもないが、先人たちの想いというのは大切にしたい。
靖国も、特攻隊の鹿児島県知覧も原爆ドームも見て、自分で感じてきた。
知覧の富屋旅館では涙もした、知覧の特攻資料館も靖国神社の資料館も自分で見て、かんじた。一部には戦争賛美的な部分が全くないとは言えない。
でも、沢山の事を感じ取った。教科書やマスコミなどが報じる戦争と「自分の足」で感じた戦争には感じることが全く違うのだ。
戦争が正しいとか正しくないとかではなくそこには紛れもなく私たちと同じ多くの日本人の若者が無念にも散っていったという事実。
私たちはそのそういった「若者」たちの多くの犠牲のもと「生かされている」ということを。
俺だって戦争は大反対だよ。でも自分の足で見てきなよ。当時の若者が戦争反対って言えたかい?
だからって当時の若者が好きこのんで戦場へ行ったと思っているのかい?
特攻隊は志願兵だから当然じゃないかって?確かめてみたかい?その事実を。。
俺だって俺が見たことすべてが事実とは思わない。人は解釈や見る角度が違えば同じ事でも感じることは違う。
いったいどれだけの同年代の大人や、若者が足を運んだっていうんだい、靖国だろうとその横の資料館にも、知覧だろうと、武蔵野御陵でも足を運んだ事があるんかい?
イヤなモノだって見るだろうし感じるだろうさ。でもその上であの神社はどうだ、こうだ。特攻がどうのこうのっていって欲しいね。
少なくても俺だって戦争反対だよ、大きっらいだよ、原爆!?サイテーだよ。いったいどれだけの人間が死んだんだよ同じ日本人だよ。
でもそんな戦争でなくなった多くの人たちも、多くの兵士も俺たちと同じ日本人だぜ。それを同じ時代で感じることは無理でも、足を運べば沢山の事が見えてくるぜ。それをあなたの価値観で感じればイィさ。
もしかしたら同じものを見ても感じ方は俺と全く逆かもしれない。でもそれが実際にいった人の価値観なら俺は受け入れるぜ。いったこともないのに教科書や報道だけで論ずるヤツよりまともだと思うからだ。
行けないなら、まずこの小説読んでみてください。
なんかお墓参りとは違う話になったけど。
特別な感情になるんだよね。お墓参りの時って。
おやすみなさい。